尼崎工場は閉鎖されてしまうのだが、その前に構内撮影のチャンスがあった。これはレールマガジンの取材に便乗させていただいたもので、その時に貨車やキャブの内部も撮っていた。
この事業所は尼崎製鉄からの歴史があり、施設の古さを感じていた。工場の跡地には様々な施設や企業が進出していて、昔の姿を偲べる場所はほとんどない。私にとっては東端のヤマト運輸と西端の尼崎スポーツの森付近へ行こうかと考えている。
2002年3/25の讀賣新聞地域ニュースに中堀運河の鉄橋が撤去されるという記事が載っている。その取材には私も協力を求められた。その記事によれば、1987年9月に高炉が止まり、線路は少しずつ撤去されていった。最後まで残ったのがこの鉄橋だった。
D183 川崎製18トン機。
もうこの時には連絡線は機能していなかったようだ。
かつての連絡線も車両置き場になっていた。これは外の道路から撮っている。ここが今のヤマト運輸である。
D185 ニチユ製18トン機。
DL3519 無線操縦の日立35トン機。
過去の車両のメモリアルも展示されていた。
DL401 神鋼電機製40トン。排気管があるならDLだったのか。レールマガジンのバックナンバーを探さないといけない。
キャブ内の無線操縦 制御盤。リレーが並んでいる。
富士車輌(守山)昭和49年製のブレーキ車。
DL402 神鋼電機製。この付近が尼崎スポーツの森になっている。
大浜工場で作った鉄を中浜町の製鋼工場へ運んだ。1984年には中浜工場が閉鎖とあり、その時から連絡線は役目を終えていたのか。
D185 ニチユ製18トン機。
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