蒸気機関車から内燃機関車に置き換わっていった北海道の鉄道だが、貨物の入換え作業も同時に無煙化が進んだ。貨物側線のスイッチャーなどは少し早く無煙化していて、それらも撮りに行っている。昭和50年くらいはサヨナラSLと輻輳して撮影していた。当時のDD51は憎き悪者で、ファンの間からは罵声も聞こえたものである。しかし、スイッチャーは広範囲に分布していて、撮影には苦労した。
その後は就職して足が遠のくが、ストック用に特急の写真が必要になり、連休を利用して何度も行っている。ちょうどキハ183が登場し、特急の本数が増加した。さらに国鉄末期には真谷地とか石炭輸送もたくさん撮っている。ちょうど8ミリビデオを始めたころで、走行シーンをたくさん記録できた。民営化直前にはジョイフルとか新車の特急車も現れ、塗装も変化した。
その頃にはすでにサラリーマンを辞めていて、車で長期取材も多くなる。新しい列車は全て撮ろうとしていた。
さらにC62が復活したり、ブルートレインの北斗星が走ったりして、北海道人気は頂点に達していたと思う。
いろいろな経験があるが、デジカメを使うようになると、また一から撮り直しで、特急やジョイフルを撮影した。さらに銘板の出版があり、まだ当時はたくさん残っていた国鉄の改造銘板を撮影する。函館や釧路駅などの大きな駅で歩き回って撮影した。その後は行先のサボも撮るようになり、各線を回って色々な区間のサボを撮影した。稚内にまで行ったが、最北の区間ではサボを使っていなくてガッカリした。
それからはカーフェリーも撮るようになり、函館・小樽・苫小牧を始め離島航路の稚内にまで行った。
この頃はほとんど車で移動したが、札幌駅周辺の写真が少なく、それだけに飛行機で出かけることもあった。ちょうどホテル付の往復ツァーが出来ていた。
最後に行ったのは10年前で、ブルートレインもまだ廃止前で、DD51もたくさん走っていた。その当時の新車もたくさん撮っている。731系とキハ201の連結運転も朝里の海岸で撮っていた。同時に函館本線のトロッコ列車も走っていた。

国鉄時代のDD51重連貨物。こんな列車は1972年の千歳線ででも撮っている。さらに2011年に新札幌駅でも撮っていた。

芦別まで行った時の帰りの列車。DD51との重連である。途中の信号場で止まったので先頭まで撮りに行った。荷物車が3両も付いていて遠かった。信号場は幌田と高根があった。

苗穂機関区の朝。この日は旭川までのすべての機関区を訪ねている。

大夕張鉄道の正確な名前はもう忘れてしまった。三菱石炭鉱業だったかな。ストーブ列車も走っていた。

JR北海道になって特急とジョイフルトレインを撮りに何度も渡道することになる。石勝線の十三里駅付近は夕張線のD51を撮りに行った所で土地勘があった。

たしかC62が走った時には平日に日本セメントの専用線にも行っている。北海道で最初の電化路線である。

東日本フェリーのクイーン宗谷。礼文や利尻に渡るフェリーがあったが、後に会社が変わったのでまた撮りに行っている。

サボはたくさんの種類があって、できるだけたくさん撮りたかった。コンシューマーのデジカメが大活躍した。

北海道の駅舎やバスも撮っている。釧網本線の川湯温泉駅は乗り換えで降ろされたことが二回あった。

電化前の札沼線にも行っている。キハ201が走っていたが、どうなったのだろうか。
慌てて打ち込んだので出し忘れがたくさんあった。サイドビューを撮りに行ったこともあり、北斗星の改造車を揃えるのには苦労したものである。その後は全駅撮影に挑んだが、只今中断中になっている。
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